INFORMATION

『沖縄戦』を慮り思う、人々の尽くされた心。太平洋戦争戦後73度目の夏。

太平洋戦争終戦後73回目の夏は、歴史的且つ記録的猛暑となった。毎年のこの時期、終戦記念日(現、終戦の日)もあって、日本全体が過去の悲事へ回想し、追悼し、今とこれからへ心する気風に包まれる。

当時二十歳だった人が現在では93歳であることからも、この戦争諸史実の伝聞は今後さらに薄まりゆくことが多いに予想されるが、戦没されたとても多くの方々のこと、日本国内の省み、当時の敵味方併せて関係した諸国との関係、そしてまた、今もなお抱える有事の可能性と近年将来の平和への取組みなど、あらゆる意味において、この史実と様々な悲しい出来事、すなわち人としての行いの数々について、永遠に眼を閉じ噛みしめる戒めとともに、平和を心から願い基づく実践社会へと成されるよう、風化されることなく在り続けて欲しい。

1945年、昭和20年3月、日本本土進攻を目指す連合国軍と「一撃講話」を意図する日本軍との激戦、いわゆる『沖縄戦』が始まる。それまで他領域を戦場としてきた日本にとって実質的な国内領土における戦いである事、特別攻撃隊を主とした日本軍航空部隊の海上参戦、戦艦大和を筆頭とした沖縄特攻、それまでサイパンでの失敗となった「水際撃滅作戦」を避けての「沿岸撃滅作戦」への変更、マル四と呼ばれた特攻艇「震洋」の配備、等々、日本本土決戦を目前とした多くの戦実が残るが、何よりも、この『沖縄戦』を思う時に、決して目を背けられない事は、9万人に及ぶ日本軍将兵及び軍属者の死亡・行方不明に加え、9万人を超す沖縄住民・民間人の死者・行方不明者というとてつもなく大きな犠牲を出した事、そして、今尚、命令か自発かに及ぶ諸説論戦止まぬ状況の「集団自決」の悲しい事実ではないだろうか。すなわち、多くの民間人犠牲を巻き込んでいるという事実に仰視してしまう。

指揮を執る第三十二軍司令官の牛島中将の主張である「軍・官・民が一体となる共生供死」に沿うように、その乏しい兵力補完加勢の為に、沖縄県民約2万5千人を動員しての民間防衛隊、男子学生による鉄血勤皇隊が結成され、女子によるひめゆり学徒隊等が戦列に加わる事になる。その上、先述した「水際作戦」から「沿岸作戦」への変更は、事実上の内陸部が戦場となり、多くの民間人を巻き込んでの交戦となる。既に前年の昭和19年10月の「沖縄外空襲」、いわゆる「十・十空襲」によって、800名近い民間人死傷者と1万を超す家屋損失という犠牲を強いられている中で、である。そして、民間人保全よりも進軍優先とされた同軍の参謀長は、遡る南京事件に絡む長勇少将(南京当時は中佐)であり、沖縄内陸戦場下での猛攻撃性は相当であった話が伝えられる。中には、スパイ疑惑等での日本軍による沖縄民間人の殺害という報告もあり、心痛極められる。恐らくは常用言語や生活文化等の差異が、軍民間の不信につながったのではなかろうかと思われるが、疑心にかられる軍部の一方で、現地沖縄の人々は軍令に一途としていたと伝えられる。

沖縄の歴史は、琉球王国として栄えた国が1609年に薩摩藩による進行を受け、明治5年に琉球処分による琉球藩を経て、明治12年(1879年)明治政府により日本の沖縄県となる。しかし、僅か73年後、この『沖縄戦』の1945年以降、1972年までの約27年間、米国統治下となってしまう。返還され今年2018年で46年、『日本の沖縄』は、琉球への侵攻や統治の分断等、様々な境地を辿りながら歩んできた歴史がある。しかし、明治の頃、当の沖縄の人々の中、琉球新報では、「早く一人前の日本国民になろう」とも呼びかけられたと伝わる。にもかかわらず、一方の日本政府は沖縄の人への見方に揺らぎが否めなかったようである。明治36年の内国勧業博覧会に於ける異人種展示では、台湾先住民族、朝鮮民族、と並び、沖縄女性が陳列された。アイヌ民族も同様であった事にも、重ねて驚きを禁じ得ない。こういった背景にありながらも、日本人であり生きる日々を営んできた歴史と、そこに降って起きる太平洋戦争『沖縄戦』戦火、となる。しかも、『沖縄戦』の目的と企図が、本土決戦までの時間稼ぎと言われている。云わば、本土の為の盾となった戦いであり、その戦火に多くの沖縄民間人が入っていったのである。伝わる話を耳にするだけでも、胸が詰まる思いだ。

私見だが、旧来の国民性、現在までの県民性として、その歴史変遷の中での生活を営む忍耐や忍従、平和と調和を求めてやまない一途な、建国社会性がとてもしっかりと備わった、人一倍、根が純粋で、誠実な人間性の具象と言っても過言ではない人々なのではないだろうか。少なくとも、自分と皆の国を愛する気持ち、社会を良くしたいと思う気持ちは人一倍なのだろうと思う。沖縄と諸島の出身の知人が幾人もいるが、皆、律儀で、人と周囲の為に尽くす深い心の持ち主だ。一心に皆を思うといった姿には、いつも敬服する。そして、明るい。去年、大変残念ながら、40代の若さで他界された友人も、人一倍温かで親切で、ひときわ明るい性格の持ち主だった。人の悩みや窮地を救う時など、本人以上の熱情を以てあきらめず励まし続ける人柄で、命に係わる大病を持病としていた彼女は、宣告された余命を幾年も超える人生を元気に送った、と聞いた。人と世のために、そして自分の家族のために生きる強さも、ずっと持ち合わせていたのだろう。沖縄に生まれ育った人が皆同じかどうかは分からないが、果たして単なる偶然やたまたまとは言えぬ、その地その史が育む魂が実際に有る様に思える。

先週8月8日、沖縄県知事の翁長雄志さんがご逝去された。心からご冥福をお祈りしたい。最期まで、基地移設に反対する姿勢とコミットメントが世の多くを動かしていた。訃報は海外でも大きく報道され、驚く事に、米NYタイムスやワシントン・ポスト、仏紙ル・モンドなど大手海外メディアがこぞって大きく取り扱ったという。現在の沖縄基地問題については未だに諸見が交錯し多事争論であり、簡単に結論化できない要素の問題である。しかし、その取組に於いて、今以上により良い道がないものか、目を凝らした検討を心した、現地の声への傾聴と本質的に充足される対話が、もう少しあって然るべきではないだろうか。

沖縄戦時の海軍指揮官、大田実少将が自決時に海軍次官宛に、こう打電している。

『沖縄県民斯ク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ』

(沖縄県民はかく戦へり、(献身と協力に感謝し)県民に対し、後世、特別な配慮を賜らんことを)

『沖縄戦』史実をきっかけにみる沖縄日本の歴史と今と今後、これは太平洋戦争全般に於ける、私たちの歴史と今と今後を思い、考え、論じ、動く、非常に大事な姿勢とも重なってくる。太平洋戦争に追悼の思いを馳せるとき、その史実出来事の一つからでも多くの事を省み、感じ、考え続けることが出来る様で在りたいし、若い世代、子供たちの世代が、平和で豊かであるために生かして行くべきだろう。

 

2018年8月15日。

サイレンの鳴り響く12時の甲子園球場のグラウンドでは、奇しくも沖縄県興南高校の若者が黙祷する。

戦争によって命を落とされた、日本のみならず関係諸国の多くの方々に心より黙祷。

 

合掌。

 

 

 

 

 

PAGE TOP